海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
(九)織田作之助『蛍』

◎自由業の時期
 昭和41年3月、私は、ようやく大学を卒業しました。
 中学時代に黒澤明の『七人の侍』を見て以来、映画監督になりたいと夢見てきましたが、テレビの攻勢に押されて映画界は斜陽化していたし、私もどうしても少年時代からの夢を実現したいという気持ちを失っていました。
 定職に就きたくなかった私は、7年間過ごしてきた京都を後にして、無職のまま、両親や兄弟姉妹が住む郷里に帰って来ました。
 何もしないで一日中家でぶらぶらしている訳にもいかず、私は、近所の中学生と高校生に英語を教えて生活費の一部を稼ぐことにしました。また、大学時代に親しかった友人が名古屋のテレビ局でディレクターをしていた関係で、番組制作のアルバイトもしました。当時の人気番組であった『11PM』が「怠け者大集合」といったような特集をした時に、怠惰の意義について研究をしていた私も出るように頼まれ、新進気鋭のSF作家の筒井康隆や直木賞作家の藤本義一などの有名人と一緒に出演しました。
 大島渚の映画の脚本を書いていた田村孟もうがシナリオを書き演出もした『島からの眺め』というテレビ・ドラマに、私は、ジュディ・オングが演ずる中学生の教師役で出演したこともありました。このドラマは、主として篠島で撮影されました。島での夢のような1週間は、暗かった私の青春時代における輝かしい一瞬として今でも鮮明に思い出されます。
 また、その友人と一緒に翻訳の仕事もしました。2年間で4冊の本を出しました。その中の1冊であるマックファーランドの『神々のラッシュアワー』(社会思想社)は、日本の新興宗教を取り扱っており、今なお高く評価されています。この本を訳したことで、私と友人は日本文化に対して少し貢献してきたと思っています。
 家での時間に縛られない自由な生活。本を読み、クラシック音楽を聴く日々。一見気楽で幸福そうに見える生活を送っていましたが、その裏では、これでいいのだろうかという思いに押し潰されそうになっていました。表面的にはのんびりしていましたが、内心は焦燥の連続でした。
 昭和44年(1969)3月28日に、29歳の私は、京都で音楽活動をしていた女性と結婚しました。二人とも儀式張ったことが嫌いだったので、結婚式をしませんでした。相手の肉親に名古屋の寿司屋に来てもらいました。そして、その店で私の肉親と出会い、一緒に昼食を食べました。それが私たちのささやかな結婚披露宴でした。

◎『蛍』
 京都から戻ってからの自由業の時期にも、私は相変わらず本をたくさん読みました。それらの中で今でも懐かしく思い出す作品があります。織田作之助の『蛍』です。
 学生時代から何回も読んでいますが、読み返す度に、今初めて読んだような新鮮な感想を与えてくれます。 
 織田作之助は大正2年(1913)10月に大阪市に生まれ、昭和22年(1947)1月に東京の病院で34歳の短い生涯を閉じました。太宰治や坂口安吾などと共にデカダン文学の代表的な作家でした。有名な作品は『夫婦善哉』と『競馬』です。
 『蛍』は戦時中の作品で、『文芸春秋』(昭和19年9月号)に発表されました。
 幕末史で有名な京都・伏見の「寺田屋」に嫁いだ一人の女性の半生を描いた作品です。昭和33年(1958)に五所平之助監督によって『蛍火』という題名で映画化されました。その映画を観て感動した私は、すぐに原作を読みました。
 この短編小説の中には、淡い光を放って飛ぶ蛍が効果的に出て来ます。蛍の明滅する光は、主人公・登勢の薄幸の人生を暗示しています。
 地の文と会話文が渾然一体となり、川の水の流れのように滞ることなく流れて行きます。その快適な流れに乗って読み進むと、所どころでハッとする表現と場面に出会います。文才は確かで、文体は新鮮です。文字で綴られた小説を読んでいるというよりも、出来の良い歌劇の序曲を聴いているような感じがしてきます。幾つかの箇所を引用します。

 登勢は一人娘である。弟や妹のないのが寂しく、生んで下さいとせがんでも、そのたび母の耳を赤くさせながら、何年か経ち十四歳に母は五十一で思いがけず妊った。母はまた赤くなり、そして女の子を生んだが、その代り母はとられた。すぐ乳母を雇い入れたところ、折柄乳母は風邪があり、それがうつったのか赤児は生まれて十日目に死んだ。父親は傷心のあまりそれから半年経たぬ内に亡くなった。

 あの寝苦しい夏の夜、登勢は遠くで聴こえる赤児の泣き声が耳について、いつまでも目が冴えた。生まれて十日目に死んだ妹のことを思い出したためだろうか。一つには登勢はなぜか赤児の泣き声が好きだった。(中略)登勢は泣き声が耳に入ると、ただ訳も無く惹きつけられて、丁度あの黙々とした無心に身体を焦がし続けている蛍の火にじっと見入っている時と同じ気持ちになり、それは何か自分の指を噛んでしまいたいような自虐めいた快感であった……。

 やがて、そんな登勢を見込んで、この男を匿ってくれと、薩摩屋敷から頼まれたのは坂本龍馬だった。(中略)坂本が、お良(養女)を娶って長崎へ下る時、あんたはん、もしこの娘を不幸せにおしやしたら、あてが怖おっせと、ついぞない強い目でじっと坂本を見つめた。
 けれども、お良と坂本を乗せた三十石の夜船が京橋を離れ、苫の火蘆の葉かげを縫って下るのを見送った時の登勢は、灯が見えなくなると、ふと視線を落として、暗がりの中を静かに流れて行く水に、はや遠い諦めをうつした。果たして、翌る年の暮近い或る夜、登勢は坂本遭難の噂を聞いた。(中略)登勢は淀の水車のように繰り返す自分の不幸を噛み締めた。
 ところが、翌る日には登勢は、はや女中たちと一緒に、あんさん、お下りさんやおやへんか、寺田屋の三十石が出ますえと、キンキンした声で客を呼び、(中略)登勢の声は、命ある限りの蛍火のように精一杯の明るさにまるで燃えていた。


【杉本武之プロフィール】

1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。25年間、西尾市の小中学校に勤務。定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
(趣味)読書と競馬